第53回歴史講座 日時: 11月4日(日)10時00分~ 題目: 井沢弥惣兵衛と見沼干拓(竜神伝説)見沼代用水開削 通船堀 場所:植竹公民館研修室 講師: 平川敏彦 参加者: 15 名
井沢弥惣兵衛 埼玉市のユルキャラ「ヌー」
植竹公民館研修室にて
見沼干拓(見沼に伝わる民話)
8代将軍「吉宗」の時代 江戸は百万人の世界でもトップの都市となっていた。
幕府の財政は緊迫していた。吉宗は「新田開発」に着手した。
目を付けたのは「武蔵国見沼」
土木技術者として紀州から「井沢弥惣兵衛」が派遣された。
弥惣兵衛はさっそく工事に取り掛かるが天候が悪く来る日も来る日も風雨が続いた。
弥惣兵衛は過労で寝込んでしまう。
その弥惣兵衛のもとに若き美しい娘が現れる。
「私は竜神の使いです。見沼がなくなると住むところがありません。病気は直して差し上げますので3か月工事を遅らせてください。」
弥惣兵衛は工事を続けます。すると今度は別の美しい娘が現れます。「私は沼に住む竜神です工事をやめてください」「いや辞めるわけにはいかぬ」と弥惣兵衛と竜神の口論は続きます。
「この工事が終わったら利根川から用水を引き生き物が住める様にする。」
「この工事が終わったらわしは食われてもよい」「だから工事を続けさせてくれ」と嘆願する。
竜神は弥惣兵衛の仕事に打ち込む姿勢にうたれて見沼を弥惣兵衛に託した。こうして農閑期の間に
見沼は田んぼに変わった。「見沼田んぼ」です。多くのさいたま市の民が協力した。
さいたま市は住みよい都市。それはこの地に当時から住んでいる民の優しさ寛容さからではないだろうか。
見沼代用水
弥惣兵衛は現在の行田地区の利根川から用水を引く。
この用水は白岡で元荒川の下をくぐり(伏越という)上尾の瓦葺で川の上を通過する掛け樋
という交差を通過して見沼まで流れてくる。
伏越も掛け樋も新しい技術ではなかったが弥宗惣衛は現在でもつかわれているこれらを造った。
見沼代用水は新たにできた田畑へ水を供給したのち芝川へ流れその先は荒川へと流れて江戸湾へ注いでいる。
通船堀
民話で竜神に約束した用水路(見沼代用水)を引いた弥惣兵衛であったが江戸までは芝川からの船便となる。見沼代用水と芝川は3mの落差がある。ここに弥惣兵衛は閘門式運河を造った。これはパナマ運河建設の180年も前の話です。
閘門式運河の技術はパナマ運河建設の180年も前にここさいたま市で花開いていたのです。
現在でも遺構が残っている。1年に一度のお祭りで再現されている。
年1回閘門通過の実演が行われる。
第54回歴史講座 日時: 11月18日(日)13時30分~ 題目: 草加松原 千葉神社 千葉城 場所:北区区役所多目的室 講師: 平川敏彦 参加者:16 名
北区区役所多目的室にて
旅行の参加者が17名となったので本日の参加者は16 名になった。
講座の内容は
①草加松原は松尾芭蕉のゆかりの地なので芭蕉と芭蕉が心を寄せた木曽義仲の話。
②千葉城は源頼朝を助けた千葉常胤と頼朝、梶原景時に暗殺された上総広常の話。
③千葉神社は相殿神の経津主神と日本武尊の話、です。
草加松原 千葉神社 千葉城
草加松原
草加市は江戸時代のの日光街道の宿場町で、松尾芭蕉の『奥の細道』の旅の第1日目にも記されている。松並木のある地域は札場と呼ばれ、古くから草加宿の北の拠点で、綾瀬川の舟運で栄えた札場河岸があった。1683年(天保3年)の綾瀬川改修時に、関東郡代伊奈半十郎忠篤が植えたと伝えられており、「千本松原」と呼ばれ古くから親しまれてきた
松原は草加市北部の浅瀬川沿いに1.5kmに渡って続く、千本松原朝呼ばれる石畳が敷かれた遊歩道がある。(草加市道が祀間幹に沿って整備され、車道と交差する箇所には跨道橋である百代橋がかけられておりそれは和風の太鼓形歩道橋で長さ63.5m幅3.5mである。)当初806本あった松が60本まで減少し現在は520本までになっている。
千葉神社
千葉神社は第66代一条天皇の眼病平癒の勅願所として1000年にこの地を治めていた千葉家のもと開山した。平安末期には源頼朝も参詣し、自筆の願文、太刀、武具などを奉納したと伝えられている。
主祭神(天之御中主大神(あめのみなかぬしのおおかみ))相殿神:経津主命(香取神社の主祭神として有名)日本武尊命
千葉城
千葉城(亥鼻城)は桓武平氏の流れをくんだ千葉一族の居城といわれます。
源頼朝が1180年の「石橋山の戦い」に敗れ千葉に逃げた際、頼朝を千葉氏が
よく助けたそうで、その功績で千葉一族は栄えた。
千葉常胤