第48回歴史講座                                             日時:  7月22日(日)13時30分~     

題目: 江戸の文化と生活              

   (江戸の生活 職業 歌舞伎、浮世絵、大相撲などの娯楽や            

     庶民の生活を探る)

場所: 北区区役所多目的室

講師: 深堀政喜                        参加者 22名

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江戸の文化と生活
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◎大江戸は世界一の大都市だった。

 江戸の人口は100万人を超えていた。

 江戸は識字率、上下水道整備率、リサイクル社会、福祉制度においても世界のトップレベルにあっ

 た。

◎江戸の娯楽

 江戸の三大娯楽は大相撲、歌舞伎、吉原

◎江戸の教育事情

 庶民が通う寺子屋は1721年に師匠の数800人。江戸府内の識字率は70% 武士は100%だった。

◎進んだ上下水道の整備、し尿の処分。

 玉川上水、神田上水などから樋管で水を引き屋敷内の井戸や長屋の共同井戸に配水した。

 し尿を除く下水は路地に設けられた排水路で河川に放流し衛生的な環境を保っていた。

 使用は農家が肥料として買い取っていた。

◎銭湯は共同であった。

 風紀の転から禁止されたが幕末まで残った。

◎江戸の医療制度

 医師免許制度はなく誰でも看板を出せば医師になれた。

 1720年無料の医療機関小石川療養所ができた。

◎江戸の食生活

 朝はご飯とみそ汁昼は冷やご飯と野菜か魚 夜はお茶漬と香の物。

 

    

 

 

第49回歴史講座

月日:2018年7月1日(日)

時間:10:00~12:00

題目:三成の忍城水攻め 成田長親と甲斐姫の活躍

講師:平川敏彦

参加者:21名

秀吉の小田原攻め

家康が秀吉の臣下となり残る東は伊達と北条となった。北条と伊達は同盟を結んでいた。また家康とも家康の娘督姫を娶らせ同盟関係だった。伊達は秀吉の「関東・奥州惣無事令」を破り「摺上原の合戦」で会津の蘆名を攻め滅亡させている。北条は秀吉を侮り上洛はしなかった。そして「関東・奥州惣無事令」を破り沼田城主が真田領名胡桃城を襲撃した。秀吉はこれをよい理由に北条攻めを決心した。過去に小田原城は信玄謙信とも攻めたが落城できなかった。氏政も籠城していれば撤退する。と思っていた。秀吉は妹旭を家康に正室で送り母まで人質に送り家康が根負けして早くに秀吉に下った。家康は北条を説得したが北条は抵抗した。家康は督姫を戻させ北条攻めに加わった。伊達は20万の兵が囲んでいることで秀吉に恭順となったが遅参と「惣無事令」違反を咎められ小田原征伐終了後会津領は没収となった。

秀吉は長期戦を決め込み小田原の支城を次々と落とし小田原を20万の兵で取り囲み淀君はじめ多くの側室や家来を呼び日夜酒宴を開いていた。

支城攻め

北条の支城の城主は城代に任せ小田原城に入城していた。忍城の城主は「秀吉と通じているので戦わず開城する」と家臣へ話して小田原城籠城にため出陣する。秀吉はほとんどの支城を落としてきた。

河越には前田、上杉、真田 岩槻城には浅野が攻めていた。忍城に三成、大谷吉嗣、佐竹が攻めてきた。その兵2万。対する忍城側500。三成の使者として長束正家がやってくる。長束は高飛車に「降伏するのかしないのか」と迫る。

忍城戦いを決める。

 城代は城主の叔父(父の弟)だったが病のためこの間に死去する。

城代を引き継いだのは城代の息子成田長親 映画では政務をせず遊び歩いてばかりで「でくのぼう」

略して「のぼう」と言われていた。しかし農民からは慕われて絶対的信頼を得ていた。

この「のぼう」が長束正家から攻めよられ「戦うこと」を決める。

第1戦

忍城3人の家老と三成隊、大谷吉嗣隊、長束正家隊の戦い 忍城側の勝利

第2戦

三成の水攻め 堤決壊 忍城側の勝利

第3戦

甲斐姫の活躍 忍城側優勢

最後の戦いが始まろうとしていた。

そこへ小田原城が降参した知らせが届く。

小田原へ出向いていた城主氏長は秀吉に開城。

忍城は三成に開城する。

成田家は会津若松の蒲生氏郷へ福井城1万石で預けられる。

その後の甲斐姫

この城で新規召し抱えの浜田将鑑兄弟が謀反を起こし妻は殺害される。

甲斐姫は甲冑を身に着け浜田の弟を討ち取り戻った父と浜田を捕らえ貼り付けとした。

この話が秀吉に伝わり甲斐姫を側室にという話が出て甲斐姫は秀吉の側室となった。

成田氏長は2万石の大名となった。

甲斐姫は秀吉にも淀殿にも秀頼にも千姫にも仕え可愛がられた。

「醍醐の花見」で歌を詠んだ。短冊が残っている。新聞記事にもなった。

秀吉は死去し秀頼の時代になる。大阪城は落城する。

戦火の中甲斐は秀頼の子「天秀尼」を助ける。そして鎌倉東慶寺に入る。

千姫は命懸けで天秀尼を養子にし助命する。

天秀尼が死去して7か月目甲斐は天秀尼を追う様にこの世を去る。

天秀尼の墓に寄り添って建っている墓がある。それは間違いなく甲斐姫の墓である。

成田家は

長親は会津へ行ってからは城主氏長と不仲になり出家する。

氏長は家督を弟へ譲る。関ケ原の武功で37,000石まで上がるがその後家督争いで改易となり旗本になった。

長親と甲斐姫が築いた栄光の成田家は歴史の闇に散っていった。