第47回歴史講座                                             日時:  6月3日(日)13時30分~     

題目: 悲劇の名将”義経”と河越重頼の娘 郷姫        (義経を支えた人達 弁慶、静御前、蕨姫)           

場所: 北区区役所多目的室

講師: 平川敏彦

参加者:21

 

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義経と郷姫        武蔵野燃ゆ       義経 

篠綾子          篠綾子         司馬遼太郎

角川学芸出版社      比企総合研究センター  文春文庫                       

   

華々しい義経の活躍

・鞍馬寺での修行、奥州藤原へ

・五条大橋での弁慶との出会い

・頼との挙兵に出向き兄弟対面

・宇治川の戦いで木曽義仲を大破

・鵯越で奇襲により平家を打破

・壇ノ浦の戦いでは八艘とびで平家を討伐。

京では義経は噂の的であった。

頼朝との不和

華やかな義経の活躍により平家を滅ぼすことができた頼朝ではあったが義経と頼朝は出会うまでの

環境が違い考え方に大きな隔たりがあった。また戦場においては梶原景時と対立する。

梶原景時によって義経への讒言が頼朝へ届く。

不和の原因

①法皇から直接官位を受けた。

②天皇と三種の神器のうち剣が戻らなかった。

③義経の女性関係

④東国武士への配慮

⑤生き残った平氏との関係

 

平家討伐後鎌倉入りをしようとする義経に堀腰にて「鎌倉への入国拒否」が言い渡される。

義経は「堀腰状」といわれる手紙を頼朝に送る。「腰越状」

義経と頼朝の考えはどの様に違っていたのか?頼朝は従来の体制を打破し武家社会を目指していた。義経は平家を倒し法皇から信頼を得ることが名誉と考えていた 二人の考えの違いは二人に亀裂をもたらしていった。

そしてお互い「討伐」の宣旨を得るが義経に味方するものは少なかった。

新たな管理地九州へ出向くも船の難破でばらばらとなり数名で雪多き吉野山中に身を隠すことになる。頼朝からの追討が始まる。

静御前の吉野入り~鎌倉へ

義経は郷姫をおいて白拍子(歌いながら踊る芸人)の静御前を連れて追手を避け雪深い吉野に入っていく。郷を守ってやる力はないのだと語る。静にとって雪深い山野を上り歩くことは困難で輿での移動であったが徐々にに遅れ出す。そして女人入山禁止の場所になり義経は多くの金銀を持たせ数人の付人をつけて静を下山させる。付人は金銀を持ち逃げし静は一人小さな村まで出る。そこで僧兵にとらわれる。静は義経との子供を身ごもっていることを知る。京都から母磯禅師と鎌倉へ連れていかれる。

これ以後義経と会うことはなかった。この時義経の子を身ごもっていた。

静は鶴岡八幡宮若宮堂で頼朝に逆らい「しずやしず しずのおだまきくりかえし 昔を今になすよしもがな」と「静、静と呼んでくれた義経様が恋しい。昔華やかだった頃の様に義経様と暮らしたい」と謡って舞った。

唱歌「鎌倉」5番

「若宮堂の舞の袖 静のおだまきくりかえし かえせし人をしのびつつ」 

静には男子が生まれたが 取り上げられ由比ヶ浜へ沈められた。

そして母と京へ帰って死去した。

というのは定説であるが静が義経を追って奥州へ向かったという静御前伝説は各地にある。

静伝説

埼玉県久喜市栗橋町

ここには過去帳があり毎年法要が営まれ毎年静御前祭りがあってパレードがある。

「静御前伝説」と言っては地元の人から怒られてしまう。

他東北地区まで多くの伝説が残っている。

北の方

奥州藤原へ身を寄せた義経ではあったが最後まで義経に寄り添いともに果てた北の方は誰だったのか

いろいろな説がある。

①鎌倉・室町時代に書かれた「義経記」では公家の久我大臣の娘。

②昭和26年頃から書かれた村上元三作「義経」では平時忠の娘 蕨姫または萌子

平成に書かれた著書

③篠綾子作「義経と郷姫」では河越重頼の娘 郷

④藪景三作「源義経の妻」では河越重頼の娘 志

⑤宮尾登美子作「義経」では河越重頼の娘 良子

最近の歴史研究家の意見では河越重頼の娘が有力であり私も同意見。

河越重頼の娘 郷姫

義経には静御前という愛妾がいた。

頼朝は義経が朝廷関係から妻を娶ることを懸念し河越重頼の娘を義経の正室に決め京へ旅立たせる。

本来重頼にとっても郷姫にとってもこの上ない良縁であったはずだったが、旅立ちの前に頼朝と義経の険悪な関係が郷姫の耳にも入っていた。京についた郷姫に義経は河越家のことを懸念し「武蔵へ帰った方がよい」というが「お家の為に来たのではない。義経様を慕ってきた。帰るつもりはない」と強い主張を繰り返す郷姫に心を許すのであった。がしかし追手は容赦なく義経に迫っていた。

郷姫は義経の子を宿していた。郷姫をおいて追手から逃亡するしかなかった。義経、弁慶、静御前は追手から身を隠す場所として吉野の山中を選んだ。そして郷姫に何も告げず雪深い吉野に入っていく。郷姫は苦悩する。が河越へ帰っては今までの自分は何だったのだろうか。郷は義経を追いかける。

安宅の関

歌舞伎の創作で実際は「富樫の城」

『義経記』では三ツ口の関 平泉寺 富樫の城 如意の渡しの出来事をまとめて『安宅の関」

として創作した。『勧進帳』も創作であり『義経記」『義経』などには記載されていない。

この関所を誰がどの様にして通ったか?

①『義経記』では「富樫の城」(富樫の館)で弁慶だけが東大寺の寄進を願って山伏姿で訪れているという設定になっている。寄進の名簿には150名 他に多くの品々の寄進を受けた。『如意の渡し』

では渡守から義経であると疑われ「思えばこれまでお前のおかげで」と弁慶が情け容赦なく扇子で打ち続けた場面がある。(高岡市伏木に銅像がある)

②『源義経』(村上元三)では「安宅の関」富樫が現れていったん通すが関所への攻撃があり迎えが来て富樫館に避難する。そこで富樫から「北の方であろう」と断言され義経は「我こそは義経その稚児は吾妻である」と言う。富樫は侍心で通す。次の場面は能登国 平時忠の流刑の地 北の方は父時忠に会いに行く。『如意の渡し』の場面はない。

③『義経と郷姫』では郷姫は別行動で奥州へ向かう。 

勧進帳

「義経記」では三ツ口の関、平泉寺、富樫の城、如意の渡しで疑われる出来事が起きているが歌舞伎ではこれらをまとめて「安宅の関」という1場面に創作されている。

勧進帳は関守

富樫から「急ぐ旅ではないなら泊まっていけ」と言われ弁慶が「修行と東大寺再建の勧進の旅でもあるので先を急ぐ」というと富樫が「勧進帳を聴聞つかまつる」というので弁慶一世一代の大芝居で白紙の巻物を読み上げる。

[恩教主だいおんきょうしゅの、秋の月は、涅槃の雲に隠れ、生死長夜しようじ ちょうや

の長き夢、驚かすべき人もなし。

ここに中頃(なかごろ)帝おはします。おん名を聖武皇帝と申し奉る。

最愛の夫人に別れ、恋慕の思いやみがたく、涕泣(ていきゅう)(まなこ)に荒く、涙(なんだ)玉を貫ねつらね、乾くいとまなし。
故に、上下菩提
(じょうげぼだい)のため、廬遮那仏を建立し給う。
しかるに、去んじ
(いんじ)治承(じしょう)のころ、焼亡(しょうぼう)し、おわんぬ。
かかる霊場
(れいじょう)絶えなむことを嘆き、俊乗房重源(しゅんじょうぼう ちょうげん)勅命をこうむって、無常の関門に涙を流し、上下の真俗(しんぞく)を勧めて かの霊場を、再建(さいこん)せんと諸国、勧進す。
一紙半銭、奉財
(ほうざい)の輩(ともがら)は現世(げんぜ)にては無比の楽に誇り、当来にては、数千蓮華(すせんれんげ)の、上に坐す。 帰命稽首(きみょう けいしゅ)、敬ってもうす。]

わかり易くいうと

「お釈迦さまは涅槃に入られ、生死の迷いから抜け出るものはありません。
聖武天皇は光明皇后を亡くし、皇后への思いはやむことなく、涙が絶えることはない。その思いは(天下安泰は)菩提心となり、東大寺に盧舎那仏を建立した。
しかし、治承
4年の平重衡の南都焼討で大仏殿を含め多くの堂塔を焼亡した。それを耐え難く思い、重源上人は東大寺大勧進職に任命され、東大寺再建のため諸国に坊主を派遣して勧進させた。
寄進するものは、現世においては無比の楽を得、来世においては悟りを開くものなり。]

亀割山での出産

亀割山に通りかかった時北の方は出産の準備をした。難産であったが女の子が生まれた。

亀割山には遺跡が残っている。この子を腕に抱き北陸道を越えて奥州藤原の里へと進んでいく。 

奥州藤原の郷

ここで2年間は心安らいだ年月であった。義経は妻郷と娘小菊と落ち着いた日々を送っていた。

当主秀衡は義経を総大将にして鎌倉の頼朝と戦う決意を固めていた。

頼りの当主藤原秀衡が急死してしまった。頼朝は泰衡に「義経を渡せば藤原は助ける」と圧力をかける。泰衡はついに屈してしまい義経を襲い討ってしまう。

頼朝は「義経を引き渡せとは言ったが殺せとは言っていない」と藤原を攻め滅ぼす。

頼朝にしてみれば「この機会に・・・・」とそれが目当てだった。

義経と郷の最後

義経:「私の妻はそなただけだ」「そなたの願いは何だった」

郷:「殿の妻として生き殿の妻として死することでございます。」

・義経の剣は郷の背から心の臓を一突きにした。

郷:「殿 お先に! お待ちしておりまする」

義経:「すまぬ郷!許せ 許してくれ。郷わが妻になってくれたことに礼を申す」

義経は涙ながらに娘小菊も手にかけ最後を遂げる。

[義経と郷姫 角川学芸出版社 篠綾子」より

 

義経伝説

義経の首は6月に43日かけて塩津家にされて鎌倉へ届いた。

腐敗して正確にはわからなかったと言われている。

それがゆえに東北地区では義経は生きて青森から北海道へ渡った。という伝説が

数多く残っている。北海道から大陸へ渡りジンギスカンになったという伝説まである。

非業の死を遂げた悲劇の名将にふさわしい「あの人は生きていた」伝説の初めての人であった。