さいたま市(旧大宮市 西口側)

普門院(さいたま市大宮区大成町)

ここに小栗上野介忠順(ただまさ)の首塚と称する墓石がある。

普門院は小栗家4代忠政の次男信由からの墓所である。

小栗上野介は幕末に大阪城から戻った慶喜に「あきらめずに交戦」を説いたため職を解かれ所領地である群馬の権田村に戻る途中この地へ訪れて家宝の槍や先祖の永代供養代を治めて権田村へと旅立った。

新政府軍は小栗上野介は「新たな城を築き砲台を造ろうとしている」として群馬県倉渕町権田で捕縛後取り調べもせず斬首した。

 

小栗家の墓は

①高崎市倉渕町権田(所領地2500または2700石の一部375石) 東善寺境内に上野介忠順と養子又一の墓がある。小栗上野介がこの地で斬首されたのでここが小栗上野の介の墓地となった。(1代かぎり)

②普門院は4代忠政とその次男信由以降が埋葬されている。足立郡大成村の信由の所領地550 石。

③忠政3男信友も普門院に埋葬されているがその子以降の葬地は麹町福寿院

④雑司ヶ谷霊園は小栗上野介の娘婿小栗貞夫が大正元年に建てたもので「小栗家累代墓」中野区(元牛込)の保善寺にあった忠政長男政信以降上野介忠順の祖父忠清まで(?)が埋葬されている墓を雑司ヶ谷霊園に移したもの。ここが小栗家宗家の墓となっている。上野介忠順については遺骨はなく供養墓と思われる。

⑤上野介忠順の父忠高は新潟奉行だったこともあるのか墓所は新潟市法音寺

 

小栗上野介の首塚(自然石の墓)がなぜここさいたま市の普門院にあるのか。

普門院42世阿部道山氏は著書「海軍の先駆者小栗上野介」にそのいきさつを書いているがいろいろありそうなのでここでの記載は控えたい。

(東善寺、普門院のホームページを参照してほしい。)

小栗上野介の首塚があると言われているのは

群馬県高崎市東善寺とさいたま市大宮区普門院。(2か所)

上野介忠順が関係している墓は上記2か所と雑司ヶ谷霊園の3か所。

 

普門院42世阿部道山氏が小栗上野介の復権にかけた情熱と努力には並々ならぬものがあった。

それが報われ昭和9年普門院に徳川家達題字「小栗上野介招魂碑」が建てられた。

小栗上野介はフランス公使レオン・ロッシュに依頼しての洋式軍隊の整備、横須賀製鉄所の建設などを実施した。「錨」「浮標水雷」「大砲」が海軍省から下府され現在も普門院境内に置かれている。

 

小栗上野介ついては2019年1月の歴史講座で触れたい。

 

普門院          小栗上野の介の首塚と言われている自然石

土屋陣屋跡 長屋門(さいたま市西区土屋5)

  

家康のもとで関東の土木を一手に引き受けた伊奈家が作った土屋陣屋跡である「永田家長屋門及び築地塀」

 

築地塀と長屋門

永田家は小栗上野介の用人武笠祐左衛門の妻の実家で忠順が江戸を立って権田村へ行くとき祐左衛門は病気で永田家へ滞在しており代わりに息子銀之助を遣わした。

その銀之介が忠順の首級を運んできて普門院へ埋葬したと言われている。

さいたま市(旧大宮市)には40数件の長屋門がある。

(北区土呂町、見沼区大和田町など)

 

三貫清水(さいたま市北区奈良町52の11)

太田道灌ゆかりの清水です。

鷹狩りに来た道灌はこの地で一休みした。

村人がこの地の湧き水でお茶をたて差し上げたところ道灌は「うまい!」と喜びその褒美に3貫(現在の5万円)を差し上げたという言い伝えがあるある清水です。                三貫清水緑地を鎌倉街道が通っていた。埼玉県には太田道灌に関するゆかりの地が他にもある。

最近蓮田市が脚光を浴びている。

   

旧大宮市(東口側)

鷹羽本陣跡 北澤稲荷神社

大宮宿で鷹羽本陣を務めた北澤家が祀っていた神社。

寿能城跡(さいたま市大宮区寿能町2-155寿能公園内)

寿能城は、永禄3年(1560年)、岩槻城の支城として、東、南、北面を見沼に面した自然の要害で守らた平山城として築かれ、岩槻城主太田三楽斎資正の第四子、潮田出羽守資忠の居城であったといわれています。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原攻めの際、豊臣勢の火にかかって落城した。現在、寿能公園のある場所は、かつて寿能城の本丸があった場所で、墓碑のある塚が物見櫓の跡と伝えらている。

大圓寺 古天明霰釜(こてんみょうあられがま)(さいたま市見沼区風渡野)

 

 

 大円寺は室町時代の創建で、その頃このあたりは岩付太田氏の領地に組み入れられていた。太田氏と大円寺とのかかわりは深く、この釜は太田道灌が茶の湯に愛用していたと伝えられ、のちに大円寺に寄贈されたもの。寄贈者は陽光院殿で、同寺に参詣する時は、この釜で茶をたて、道灌の位牌に供えたと言われている。
天明は、現在の栃木県佐野市あたりの地名で、古天明は、室町時代後期までにつくられたものの総称。「西の芦谷東の天明」と言われ、茶の湯釜の双璧と称された。
大円寺釜は、古天明としては珍しく霰文ですが、他に文様を入れない霰無地で、その気品ある形とともに、古天明の味わいを持つ貴重な釜と言える。(大宮市教育委員会掲示より)

  

この文化財は常時公開されていませんので、見学の際には、所有者、管理者の許可が必要です。

妙玖寺(さいたま市西区中釘)

土佐山内一豊が死去すると、一豊の弟康豊の長男・忠義(伯父の山内一豊は伯父)が土佐2代藩主に就任する。妙玖寺は忠義の母(加藤清正長女 一豊の弟の妻)の菩提寺。忠義の弟一唯は秀忠から指扇3000石を拝領。妙玖寺は山内家の菩提寺となる。4代豊房が土佐を継ぐことになりそこまではこの地の領主であった。

 妙玖寺本堂

旧浦和市(東口側)

見沼通船堀(さいたま市緑区大字大間木)

パナマ運河建設からさかのぼること180年以上前日本いやさいたま市でこれに匹敵する運河が作られていた。それが見沼干拓時に井沢弥惣兵衛によって作られた「見沼通船堀」である。見沼代用水は干拓でなくなった見沼の代わりに作った灌漑用水であるが見沼代用水は江戸まで通じておらず江戸への輸送は芝川へ出ないといけない。そこで水位が3m異なる芝川へでるため通船堀をつくり閘門を設けて水位を調整し船を通過させた。これにより見沼代用水から芝川へ出てさらに隅田川への船輸送が可能となり米運搬などの運輸業が栄えていった。埼玉県の肥沃な田園開発は高度な河川用水工事技術によりここさいたま市で花開いていた。

   「通船堀」の画像検索結果

氷川女体神社(さいたま市緑区三室)

この神社は「武蔵国一宮神社」であり見沼には竜神が住んでいたとされ竜神を祀る神社であった。境内には「竜神社」なるものがある。

かつては見沼の一番深いところへ船をこぎだして4本の竹を刺しで竜神様を祀る「御船祭」が行われていたものの、享保十二年(1727)に見沼が干拓。見沼での御船祭が行えなくなった。

代わりに、池の中に丸い島を築いた祭祀場を設け「磐船祭」を行うこととなった。その名残の池がここに残っている。

言い伝えでは氷川女体神社と中山神社と氷川神社は一直線上にあり古くはこの方向から上る朝日の位置で夏至や冬至を判断していたと言われている。

  

清泰寺(さいたま市緑区尾間木)

武田信玄の次女で穴山梅雪の妻見性院の墓があります。

見性院は旧武田家遺臣を厚く仕官させた家康のもと600石の知行地を本牧(後の尾間木)に拝領した。

2代目秀忠の愛妾静が身ごもると見性院は嫉妬深いお江から守るため静をこの地に匿った。静が生んだ子供は後に3代将軍家光の目にとまり保科正之として将軍を補佐し4代将軍家綱の副将軍となった。

正之は見性院が亡くなると霊廟をたて供養した。

霊廟跡は葵の御紋のある門塀が残っている。

 

葵の御紋ののある霊廟の門塀    見性院の墓

国昌寺( さいたま市緑区東浦和5-18-9)

竜神伝説のある寺 左甚五郎の彫刻が欄間にある

   

開かずの門          左甚五郎の龍の彫刻

江戸時代には徳川家光以来、寺領十石の寄進を受けていた。
江戸時代中期に建立された山門(市指定有形文化財)は「開かずの門」として有名で、この門を棺が通ると軽くなる
龍が食うという伝説があり、門は閉じられ「開かずの門」になったと伝えられている。

他にも、見沼に棲んでいた龍が作物を荒らしたので、日光から帰る途中の左甚五郎に龍を彫ってもらい、釘づけにして門におさめたという伝説もある。

旧浦和市(西口側)

浦和宿 二,七市場跡

 

浦和宿

本陣跡 明治天皇御在所址碑

仲町公園

戦国時代には大名が泊まり明治時代には明治天皇が2回泊まった。

玉蔵院(ぎょくぞういん)さいたま市浦和区仲町2-13-22

    

 

平安時代頃に弘法大師により創建されたと伝わる真言宗の古刹です。桜の名所としても名高く、本堂横の樹齢100年以上のしだれ桜は、多くの見物客を集めています。本尊とは別に平安時代末期の作となる地蔵菩薩立像(埼玉県指定有形文化財)が安置されており、地蔵信仰の寺として長い歴史を持っています。
 中世戦国時代に京都醍醐寺三宝院の直末寺となり、天正年19年(1591)には、徳川家康から寺領十石を寄進されています。江戸時代になると真言宗豊山派に属し、奈良長谷寺から住職が派遣されるほどの格式を有しました。
 元禄12年(1699)の災厄で、一度伽藍を焼失しましたが、本堂は元禄14年に再建され、以後、徐々に復興されています。本尊の大日如来座像は、宝永7年(1710)の作です。

調宮神社(つきのみやじんじゃ)さいたま市浦和区岸町

927年には会ったと言われるいる。

お月様を信仰する「月待信仰」の拠点になっている。それゆえ狛犬がなくウサギだ。

調(みつぎ)ものが集められた神社でそれが通れる様に鳥居がない。

 

長伝寺(さいたま市中央区本町)

ここにも竜神伝説がある。

 長伝寺の水呑み竜 

大雨の降る晩、寺の欄間の竜が消えていなくなる。跡を追うあふれそうな川の水をがぶがぶと呑んで冠水を防いでいた。それでこの地域は冠水しないことが分かった。ここには木造閻魔大王座像がある。