保科正之と母 静
保科正之は徳川2代将軍秀忠の庶子。
母静は側室として認められなかった。
秀忠の正室は信長の妹お市の方と浅井長政との子(淀、初、江)の末娘。秀吉の養女として徳川に嫁いだ。立場が上で性格的にも気が強い。
秀忠はとてもお江には言えなかった。
懐妊はお江の知るところとなり嫌がらせが続く。
お静は武田信玄の娘で家康から擁護された「見性院」を頼る。
見性院は家康から知行地として浦和宿本牧に600石を拝領していた。見性院は静をここに匿った。
静はこの時隣の大宮宿氷川神社に祈願文を奉納する。
”自分は将軍様の御子を宿したが御方様の嫉妬が激しくこの地にとどまっている。どうか安産で男の子をさずけてください”という内容であった。
この祈願文は埼玉県の無形文化財になっている。
氷川神社は御祭神”須佐之男命””稲田姫の命””大己貴(おおなむち)”の親子神を祀っている。
(万葉集では親子、氷川神社のホームページでも親子説をとっている。)
親子を大事にする氷川神社はお静の望み通り御方様の嫉妬からまもり安産で男の子を与えたのです。
秀忠からは「幸松」の名はもらったもののその後見性院へ養育を依頼する要請が入った。
しばらくは見性院の元で育てられたが武士として独り立ちするためにはと高遠藩保科正光を頼り
養子としそこで元服した。「保科正之」の誕生です。そして保科家を相続し3万石の大名となった。
将軍秀忠とは面会なく父秀忠は世を去ったが3代将軍家光は鷹狩の際立ち寄った寺の住職の話から高遠藩主保科正之が弟であることを知る。
家光は正之にいろいろな仕事をさせるが驕りのない謙虚な姿勢に感服し近習として取り立てていく。
家光は病で倒れるが将軍にだけ許されていた”萌葱色の着衣”の使用を許し11歳の我が子の行く末を託す。正之は11歳の4代表将軍を支える”副将軍”として指揮をとっていく。正之は高遠藩主3万石から山形藩20万石に。さらに会津藩23万石+5万石預かりと出世していく。
由比正雪の乱 振袖火事などを経験しその対策を適切に処理していく。
乱が起きるのは改易になった藩からの浪人が多いため・改易にならない策を講じていく。
特に振袖火事ではその災害対策については被害者の立場に立ち幕府の米倉から多くを放出し飢餓から民を救った。遺体は川に流すのではなく合同墓地で供養塔を立てた(現在の回向院)延焼を止められる様に道幅を拡げた(現在の上野広小路)橋を増やした(現在の両国橋)
江戸城天守は見張り台だけの役割なのでと再建は先延ばしする。
会津藩では社倉法という民が困っているときに貸し出しをする制度や日本の国民保険制度のもとになった保証制度をを確立していく。
そして徳川第1を考える家訓を残す。
それが皮肉にも会津藩を幕末に戊辰戦争へと引いていくことになってしまう。