第42回歴史講座 日時:2018年2月4日(日)13:30~15:30
題目:肥前の妖怪‐鍋島斉正(なりまさ)
(知られざる幕末維新の功労者 第10代佐賀藩主)
場所:北区区役所多目的室 講師:深堀政喜
参加者:26名
鍋島斉正
福岡出身の講師は九州の武将には特別の思いがある。長崎の南に講師と同じ姓の「深堀」という地名がある。先祖はここの出身かもしれないという。
本日は肥前の妖怪といわれた佐賀藩主「鍋島斉正」についてである。
1、肥後の国
①縄文時代:日本最古の水田稲作遺跡。
②弥生時代:吉野ヶ里遺跡
③豊臣時代:秀吉の九州出兵。挑戦出兵の拠点
④江戸時代:長崎出島。
2、佐賀藩と鍋島斉正
①関ケ原の戦いでは西軍につくが東軍勝利後寝返り所領安堵。
②佐賀は鎌倉時代は少弐氏→龍造寺→鍋島。
③ペリー来航時は10代藩主斉正 攘夷論を唱え幕府に協力する。
3、斉正のエピソード
①徳川との関係 正室は徳川11代将軍家斉の18女盛姫 継室は家斉の異母兄弟斉匡の19女筆姫
②藩政改革
③巨額負債を解消する経営手腕
④海外交流
京都所司代就任願いを出して却下されている。
佐賀藩が京都所司代になっていたら戊辰戦争はなかった。
4、佐賀藩出身者。
①大熊重信
②江藤新平
③鍋島閑叟(斉正)
他
5、佐賀藩が幕府についていたら
①鳥羽伏見の戦い
②大阪城攻防
③江戸城攻防
すべて幕府が勝利したかもしれない。
副題の「肥前の妖怪」と言われた理由。
多くの藩が尊王派と佐幕派の対立で犠牲者を出す中で斉正は公武合体佐幕に均等な距離を置きながら藩内紛争で犠牲者を出さなかった。態度を鮮明にせずあいまいな斉正は薩長から「妖怪」と呼ばれた。
参加者26名
九州佐賀のお話で九州出身者は身近に感じられた様でした。
幕末は長州、薩摩の働きでいいところは持っていかれたが佐賀藩は将軍の姫を正室にしていることもあり難しい対応をせざるを得なかった。
幕府につくか薩長につくかで何とも不気味な対応の「妖怪」鍋島斉正のお話でありました。
第43回歴史講座
月日:2018年2月25日(日)
時間:10:00~12:00
題目:熊谷直実と平敦盛
講師:平川敏彦
参加者:14名
〇熊谷直実の先祖
〇保元の乱(直実初陣)平治の乱(参戦)
〇以仁王と源頼政の挙兵
〇木曽義仲の挙兵
〇源頼朝の挙兵
〇富士川の戦い(頼朝と平維盛)
〇佐竹討伐(直実武功を立て熊谷郷を安堵される)
〇宇治川の戦い(木曽義仲と頼朝軍義経と範頼)
〇一の谷の戦い
〇須磨の浜辺(直実と平敦盛の一騎打ち)
〇「敦盛と直実」能や舞になる。
〇久下直光と領土境界争い
〇出家
〇予告往生
〇直実は歌と踊りになる(直実節)
〇直実と敦盛 花の名前になる。(敦盛草 熊谷草)
平家討伐で義経に従って一の谷へ向かうが抜け駆けで軍より先に一の谷へ到着する。
戦いは決着がつき平家は海へと逃げる。
直実は渚にいた。そこへ逃げ遅れた平敦盛が波間をさまよっていた。
直実は「敵に後ろを見せるとは卑怯ぞ」「返したまえ」と。敦盛は勇敢にも戻って直実と一騎打ちに臨む。
組伏し首を討たんとする直実。見ると我が子と同じ年頃。「名を名乗り給え。逃がして進ぜる」「無用なこと 早く討て」気が付くと追手がすぐ後ろまで来ていた。「直実が討って供養致す」と言って敦盛の首をとる。直実の顔は涙でいっぱいであった。首実検で清盛の弟経盛の3男平敦盛とわかる。直実は義経の許しを得て敦盛の首を父親「経盛」へ届ける。経盛から返し状がある。この話が能や幸若舞となった。信長が謡って舞った「人間50年・・・・」「幸若舞 敦盛」はこの一説である。