NHK大河ドラマ
第52回歴史講座 日時:2018年10月7日(日)13:30~15:30 題目:西郷隆盛② 「江戸城無血開城」「廃藩置県」「征韓論(遣韓論)」「西南戦争 田原坂」
場所:北区区役所多目的室 講師:平川敏彦
参加者: 24 名
西郷隆盛(鳥羽伏見の戦い~西南戦争)
これまでのお話
そしてついに
討幕が始まると将軍だった徳川慶喜は西郷や大久保から「慶喜」と呼び捨てにされる。
鳥羽伏見の戦いが起こり「錦の御旗」を見た慶喜は大阪から江戸へ逃げかえった。
①朝敵にはなりたくない。②徳川を残したい。③自分が死罪にならないこと。このために容赦なく他を犠牲にした。最後まで抗戦を主張する小栗上野介を即刻罷免した。そして
勝海舟にすべてを任せ寛永寺に蟄居謹慎した。
西郷の心境の変化
大政奉還で討幕の勢いが抑えられてしまうが敬天愛人の心をもった西郷は慶喜の揺さぶりに惑わされ
ついにこの戦いは「慶喜の切腹なくして終わらない」という革命思想に変わっていく。
江戸城無血開城
慶喜は進軍してくる新政府軍に恭順していることを伝えるため、勝を呼んで、「新政府軍に、私の恭順の気持ちを丁寧に説明してきて」と頼むが、すぐ、「勝が一人で出向いたら、彼は向こうの人質になってしまう」と思い直し、撤回した。代わって、自分の近くで身を守ってくれている高橋泥舟という槍(やり)の名手を候補に挙げたが慶喜の側近だったので離れられず泥舟は義弟の山岡鉄舟を代理に選んだ。山岡は33歳。身長は190センチ近く、体重は100キロを超える巨漢で、剣禅一如(何かを極めるには、心の修行が必要で、それは、剣でも、禅でも同じだということ。)の精進を続けていた。
将軍の前に現れた山岡に、汝を呼んだのは「駿府の官軍に対し、慶喜の恭順謹慎の実を貫徹せしめ、天下の太平を祈るにあり」と語った。
鉄舟は駿府へ発つ前に奉行だった勝海舟を訪ねた。勝は添え状を持たせ江戸で暴動を起こした薩摩の益満休之助の身柄を預かっていたがその益満を連れて行かせた。これをもって「山岡鉄舟は勝の使いで西郷と会った」との意見になっている。
駿府へ向かう途中品川大森付近へ来ると官軍が多くいる中「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎大総督府へ通る」と胸を張り通過した。駿府の上伝馬町の松崎屋源兵衛宅に滞在していた西郷隆盛を訪ねます。(詳細は別講座「江戸城無血開城」)
山岡は新政府軍の降伏条件の中で1つだけ譲れない。
慶喜公の「備前藩預かり」を「水戸で謹慎」と主張したのであった。
「命もいらず名もいらず官位も金もいらぬ人は始末に困るもの」とは西郷が鉄舟をさして言った言葉である。
山岡鉄舟は西郷に「もし主君の島津公が遠くに預かりになっても安閑としていられますか?」と迫る。
西郷ー勝の本会議で西郷は「わかりもした。明日の総攻撃はやめにしましょう」という。
西郷の脳裏をかすめたものは何だっただろうか?山岡鉄舟の真に迫る主張その外には
1、イギリス公使パークスの発言
薩摩は江戸総攻撃の際負傷者のための場所(病院)の提供を願い出た。パークスは激怒した。
「すでに降伏しているものを討つとはいかがなものか」江戸が火の海になれば外国人も巻き沿いになる。幕府はフランスと蜜月状態にある。英国も戦いに加わると内戦に外国勢が加担してくる。
西郷はこれを恐れた。という説がある.
今年の1月元アナウンサーで大学教授のM氏の「江戸城無血開城」という講座を聞いたがこの説をとっている。
が一方「時間軸的に無理がある。」という説もある。
西郷がパークスの話を聞いたのは勝海舟との会談が終了した後だ。
この話は三条、岩倉、板垣などを説得するのに使ったと思われる。(会談の前にすべて決していた説もある)
M氏は当然このことも知っている。
この様に説としては両説とも主張に正当性があって主張する。歴史は相反する説が永久に論じられる。
2、篤姫と皇女和宮の嘆願。
慶喜は徳川を残すことと自分の命を救ってもらうことに奔走しそのためならいかなることも容赦なく斬り捨てた。そして面識のあまりない篤姫と和宮にも口沿いを頼んだ。
篤姫は西郷へ手紙を出す。徳川を残してほしい。さもなくばあの世へ行って家定公へ合わせる顔がない。篤姫は幾島に嘆願書を託す。
皇女和宮は嘆願書を付人で公家出身の土御門藤子に託す。土御門は「慶喜の切腹。江戸城総攻撃」と息巻いている西郷を相手にせず公家を通して岩倉具視→三条実美→有栖川親王へと渡した。
和宮は徳川の幕臣たちへ家康公から続いた徳川をつぶさない様に説得にあたる。
二人は徳川を残すために必死であった。(将軍と並んだ墓石があるのは異例で「徳川を残した功績」とも言われている。
歴史の見方は様々
和宮の命を受け土御門藤子が嘆願書を朝廷に届ける。組織上西郷と天皇の間には岩倉具視、三条実美、有栖川親王がいる。藤子は「慶喜の切腹。江戸城総攻撃を唱える西郷では話にならない」と公家から岩倉具視に嘆願書を届けた。それは有栖川親王にもわたり表向きの決定にはならなかったが「和宮哀訴のことは厚く朝議をつくさるべの旨を藤に伝う」(岩倉公実記)と書かれている。藤子は和宮に内定を伝えている。
江戸城無血開城と慶喜の助命は和宮の功績である。
鉄舟は勝海舟の使いではない。明治14年、政府の賞勲局が、維新の際の功績を調査した際、鉄舟は、勝との手柄争いになるのを嫌い、「江戸無血開城」の功績を勝に譲り、報告書を提出しなかった。勝海舟は『海舟余波』で「維新の事は俺と西郷でやったのさ」と自慢げに言っている。
「政府に尋問の筋これあり」「鈴木壮一著」「毎日ワンズ」に書かれている。
江戸を離れた西郷と謙虚な山岡鉄舟をいいことに勝海舟は「江戸無血開城」の手柄を独り占めした。
と評価する歴史研究家もいる。鉄舟と会う前に岩倉から「江戸城総攻撃中止と慶喜を助命する」ことは西郷に告げられていた。と思われる。降伏の条件は西郷から山岡に告げられたことでもわかる。
パークス説はないと思う。
西郷と勝の会談で決まったのは慶喜公の「備前預かり」が「水戸預かり」に正式に決まっただけ。
これはほとんどが山岡鉄舟の交渉であって勝の交渉ではない。勝海舟は「とんびなり」
西郷がパークスの発言や篤姫、和宮の言動をどの様に受け止めたかは定かでないがこの無血開城は和宮の奮闘と命をかけて臨んだ山岡鉄舟の熱弁が功を奏した出来事であった。ということにしておきたい。
征韓論
(日本書紀の神功皇后紀では高句麗・新羅・百済を「三韓」と呼んでいた。征韓派が「征韓」
を使った。)
征韓論とは「韓国を武力で征伐する」という考え方。
徳川幕府と懇意だった韓国だが新政府に対して突然の親交は違和感があった。新政府は使節を送るが拒絶された。
ある日「日本は野蛮国」という意味の張り紙がされ事実上の国交断絶となった。明治天皇の「皇」は朝鮮の「王」より格が上であることへの反発からであった。
それに対し「武力で討つべし」という征韓論が政府を占めた。当時参議(大臣)として政府を仕切っていたのは西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣。強硬派板垣退助。西郷は「遣韓論」だったと言われる。つまり鎖国の朝鮮に開国させ中国、日本、朝鮮の三国が協力してヨーロッパ各国からの侵略に備えるというもの。西郷は自分が韓国へ赴いて説得にあたる。と主張する。
それに対し大久保利通が大反対をする。ヨーロッパ各国を見てきた大久保は「そんなことをしている場合ではない」「国内をなんとかせねばいけない」「朝鮮の非礼を責めて戦争を起こすべきではない」と主張。岩倉具視の帰国を待って岩倉、木戸、大久保、伊藤博文等が反対に回った。大久保は参議になるのを一度は辞退したが「自分の意見を通す」ことを条件に復帰するが西郷の意見が通って大久保他は参議を辞任する。が天皇への上申役だった三条実美が過労で倒れ岩倉が代理となったことで西郷は反対の岩倉に迫るが岩倉は「わしは岩倉で三条公ではない。」と突き放し天皇には西郷の反対意見が上申された。
西郷は参議を辞任し薩摩へ帰った。ほかの参議も全員辞任した。議論の内容よりも「岩倉使節団」の政治への復帰のために反対し征韓派を排除したとも言われている。征韓論争は天皇が朝鮮への使節派遣を無期延期したことで決着した。
政権は三条、岩倉、大久保、木戸、伊藤、大隈などに入れ替わった。大久保利通は内務省を設置してその長官である内務卿に就任した。これは大久保が、政府の事実上のトップに立ったということを意味する。
大久保は殖産興業政策や学制、地租改正や徴兵令を実施していく。
大久保の取り組みは日本の近代化は加速していく。世界遺産となった富岡製糸場などもその一つ。
と同時に政権は不人気で大久保は外交へ目を向け台湾を攻撃したり朝鮮を攻めていく(江華島事件)。木戸孝允は参議を辞任する。「維新の3傑」のなかで大久保利通だけが政権に残ることになった。これは日清戦争への引き金にもなったとも言われる。
田原坂
雨はふるふる(^^♪ 人馬は濡れる(^^♪ 越すに越されぬ(^^♪ 田原坂
熊本城を包囲した西郷隊ではあったがなかなか落ちない。
新政府側は東京から応援部隊を送り込む。
ここは加藤清正が造った道幅の細い街道。両側は盛り土。新政府軍に対し西郷軍は士気が高くどんなに攻めてもこの坂を超えることは出来なかった。
45日の攻防。「越すに越されぬ田原坂」であった。
西郷の最後
1877年8月15日、西郷が率いる薩軍の敗北が決定的になった。
西郷は正式に軍を解散して、鹿児島市城山です。
そして官軍が放った銃弾が、西郷の太ももに当たり、その場で膝を落とす。
西郷は覚悟を決め傍にいた側近の別府晋介に向かって、最後の言葉を言う。
「晋どん、もうここいらでよか…」
西郷は別府の介錯を受けて、その人生の幕をおろした。
1877年9月24日、享年49歳偉大な人生でした。
西南戦争