第39回歴史講座 日時: 10月8日(日)13時30分~
題目: 第1部 幕末、明治 (ペリー来航から15年で武士の世が瓦解した幕末の歴史を考える。) 場所: プラザノース第3セミナー室 講師: 深堀 政喜 参加者22名
ペリー来航から明治維新までの歴史を①過去からのつながりと②勝者の目の見直しの観点から考えます。
1.つながりを示す出来事
1-1.ペリー来航ショックはなぜ大きかった?
◎元寇との比較;蒙古軍撃退で海に囲まれた安全な国だったのが蒸気船の出現により、世界一危険な国になった恐怖。
◎アヘン戦争の恐れ;ヨーロッパ列強による植民地化の恐れに現実味が・・
1-2.尊王攘夷思想はどこから?
◎水戸学の元は徳川家康;主家に忠誠を説く朱子学の奨励が光圀に引き継がれ、さらに斉昭が攘夷思想を加えた。
◎聖徳太子の影響;儒教による忠君の教え、憲法17条、君、臣、民の関係
異国への恐れ+尊王思想→尊王攘夷思想→維新のエネルギー
2.勝者による歴史を見直す
2-1.徳川慶喜の例
内戦回避など新政府に評価され従一位の官位が与えられたが、幕臣や武士の立場から見ると、①無条件の大政奉還②鳥羽伏見の敗戦と敵前逃亡③江戸城無抵抗開城などは失策で裏切りであり、犠牲も大きかった。
2-2.井伊直弼の例
大老就任後の安政の大獄では独裁者として悪名が高い。将軍継嗣問題の解決やアメリカ、イギリスなど5か国との修好通商条約を締結し開国を進めた有能な大老でもあった。幕府を存続させる立場としては安政の大獄での処分は必要な措置であったのかもしれない。
2-3.吉田松陰から山縣有朋まで
維新の英雄と言われる人々も敗者の目で見直すと、真逆の評価になる場合もある。
~まとめ~
歴史上の人物や出来事を時間の断片で見るのではなく、過去とのつながりで考えること、また声なき敗者の立場で見直すことで理解が深まり、歴史への興味が更に湧いてくると思います。
第39回 第2部 武田神社 昇仙峡 甲府城 日時 10月8日(日)13時30分~ 場所 プラザノース第3セミナー室 講師 室井孝雄 参加者22名
1 11月16日(木)歴史巡り(武田神社、甲府 城、昇仙峡等)の説明等
行程説明:昇仙峡へ直行 昼食は昇仙峡で「ほうとう鍋」
昼食後渓谷沿いを徒歩で探索
次は武田神社(躑躅が埼館跡)
甲府城の順序
(資料配布)
2 武田神社の歴史
・武田信玄の素顔 信玄にまつわるエピソード
・1541年父を追放 「人は城、人は石垣・・・・」で知られる様に人を大事にした。
・信玄の戦いぶり 「早きこと風のごとく・・・」
・生涯70回以上の合戦で3回の敗北だけ。
・謙信との川中島の戦いで5回にもわたる戦いを繰り広げた。
・三方ヶ原の戦いで家康・信長連合軍を破る。(信長自身は参戦していない)
・武田二十四将といわれる強力な家臣がいた。
・1573年4月13日 病死
「武田信玄は本当はやさ男だっ た?」
信玄の肖像画で説明。
左は成慶院の肖像画 右は持明院の肖像画
成慶院の肖像画は長谷川等伯作 等伯と信玄の接点がないこと。衣服に家紋がない。などからこ
の画は信玄ではないと否定されており最近は使われなくなってきている。
右は30歳前後出家前 「花菱紋」があり武田逍遥軒信兼の作
父信虎を追放して甲斐の守護としての自分の姿を写させたと思われる。
信玄の死因
信玄の死後御宿信綱から小山田信茂にあてた書状に肺の病気が進んで胃腸の具合も悪くなったと記
載されている。そこから「肺結核」だったのではないかと推測されている。
3 甲府城
別名、舞鶴城。武田氏滅亡後、豊臣秀吉の命により築城された。関東の徳川家康に対抗するため
の重要な戦略拠点として築かれたといわれ、徳川体制になってからは西側(秀頼)への備えとし
ての重要な拠点だった。